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杜に想ふ 令和の仲執持として 涼恵

令和6年06月10日付 5面

 ある日、社頭で御奉仕してゐた際に参拝者の一人が不安さうな顔をして尋ねてきた。「小さい頃からこのお宮が好きだったのですが、産土鑑定士にあなたの本当の産土神社は〇〇神社ですと言はれた。ここへはもう来ない方が良いのでせうか」と仰るのだ。実際にその方は、この地域で生まれ育ったといふ。「もちろん、大丈夫ですよ。いつでもお参りください!」とお返事したが、「強く薦められたので、どうしたら良いのかわからなくなった。ただ、やっぱり今年もこの神社にお参りに来ました」と、続けた。産土神社を鑑定することを生業にしてゐる人がゐるとは知ってゐたけれど、まさかそのやうな影響があるなんて。
 先日、産土鑑定士を名乗る方と御縁があったので、思ひ切ってこの話を打ち明けてみた。すると「私の周りには、さういふ伝へ方をする人はゐない。師匠は何処かのお宮を否定するやうなことはしないし、人によるのだらう」との返答だった。彼女を責めたい訳ではないので、それ以上は話さなかった。ちなみに鑑定はダウジングといふやり方でするのださう。
 ここ数年、神社ツアー、神社リトリートなる文字がよく目立つ。読者の皆様の目に触れたこともあるのではないだらうか。神職仲間が漏らしてゐた。「うちの神社の名前を借りて人を集めて、参加費もなかなか高額らしいねんけど、挨拶も昇殿参拝もないんよ」。
 自由に参拝されたのち、社務所にも寄らず、玉串料も包まず帰ってしまふのだといふ。先方に遠慮があるのか、こちらの敷居が高いのか、現場で奉仕する神職との交流はとくにないといふ。何か違和感を抱いてしまふのは私だけではないだらう。
 正解が一つといふ訳ではないデリケートで複雑な問題だと思ふ。あれが違ってこれが正しいと第三者に鑑定してもらって決まることではないやうに感じる。もしも答へがあるとするならば、その都度御本人にしか分からない、御本人だからこそ感じられる何かが用意されてゐるのではないだらうか。御自身に感受する器があり、八百万の神様はいつも目には見えない何かを絶えず斉しく働きかけていらっしゃると私は思ふ。誰かに何かを強く定められてしまった途端に視界が悪く感度が鈍くなってしまふ気がする。でも人は時として、その強さや明確な言葉を求めるものなのかもしれない。弱ってゐる時はとくに。
 神職は仲執持。「スピリチュアル系」と言はれる人たちも、きっと参拝者と神様を繋ぐ役割をしようとされてゐるのだと思ふ。ただ、悲しいけれど、伝統的な役割を担ふ神社の商業利用や売名行為とされる側面もあるのかもしれない。相互理解を深めてゆきたい。
 自分の思ひ込みを相手に押し付けてゐないか。参拝者と神様との関係を邪魔してしまはないやうに。自戒をこめて、まだ実践されてゐない今の時代に合はせた神様と人との仲を執り持つやり方があるやうな気がしてならない。皆様はどう思ふだらうか。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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