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杜に想ふ おやつはどうする? 植戸万典

令和6年06月24日付 5面

 仕事の記事やら論文やらの執筆に勤しんでゐると、三時頃にはお茶と甘いものが欲しくなる。緑茶か紅茶かコーヒーか、菓子は和か洋か。今日はどうしよう。
 一服して資料を眺めてゐたら、古都鎌倉で騒動のあったらしいことを知った。ちゃうど六十年前の出来事である。
 昭和三十九年、高度経済成長期の鎌倉市で風致保存会が発足する。鶴岡八幡宮の後背の山林に宅地造成が計画され、これに反対する市民運動が起きたのだ。山は八幡宮寺供僧の住坊である二十五坊のあった史蹟で、森林は貴重な自然環境を残してゐた。そこで住民や文化人らが結成した鎌倉風致保存会は寄附を募って一・五ヘクタールを買ひ取り、山林は守られることとなった。ピーターラビットの作者ビアトリクス・ポターは英国湖水地方の環境保全に尽力したことで有名だが、鎌倉はそのやうなナショナルトラスト運動の日本における先駆といはれる。
 また、同じ年には京都でも、某門跡寺院が売却した景勝地の双ヶ丘に開発計画が生じたことで反対の声が挙がってゐた。さらに奈良においても若草山一帯の開発が問題視されてをり、このころは経済発展のなかで歴史的な風土の保護運動が相次いでゐたのだ。
 その昭和三十年代後半はまた、神社界でも境内の開発が危惧される時代だった。本殿を見下ろすやうなビルのみならず、社殿自体を高層化するやうな神社が出来したため、その抑止策として昭和四十五年には「神社の社殿改築と多層建築物について」なる本庁通達が示された。もっとも、本殿に関してだけ地面から離れてゐてはならぬとした教学的根拠は未だよくわからない。
 さうした境内の開発は、神社がみづからの社地の活用を図ったもので、名勝を売却した某寺院の事情とも近からう。社入安定のためマンション建設をといった計画は近年もまま聞かれる。当然熟考したうへでの決断だらうが、それでも世間で反対する声が沸くこともしばしば。ただ、さうした反対運動のある際でも、かつての鎌倉のやうに保存を望む側が資金を集めて解決したといふ話はあまり耳にしない。さういふものなのでせうか。
 六十年前は鎌倉や京都、奈良などが中心となって連絡協議会を組織し、全国的な運動を展開した結果、昭和四十一年に超党派の議員立法によっていはゆる「古都保存法」が制定された。しかしさうした古都でも、その後も今に至るまで開発などによる混乱は出立してゐる。いづれ「持続可能な開発」は当事者を無視した独善的正義感で強ひるべきものではないのだと、往時の鎌倉からは教へられる。
 鎌倉でのこのときの運動は後に御谷騒動と呼ばれた。開発計画された地名の「御谷」にちなむが、三時のおやつはサブレーにするか餅にするかで喧嘩する子供らの姿をつい想像してしまった。これは我ながらくだらないと思ふ。
(ライター・史学徒)

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