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杜に想ふ 母の少女性 涼恵

令和6年08月12日付 5面

 最近、母が祖母に似てきた。今年に入ってから大病を患ひ、入院中に体重が十数キロ痩せたことも関係してゐるのだらう。
 祖母はとても美しい人だった。もう四年前に他界したのだが、母が祖母を介護する姿は、娘そのもので、私の知る母の姿とはまた違ふ一面だった。母はいつも誰かのために一所懸命で、その時その時で支へが必要な人に誠心誠意向き合ってくれる人だ。
 私はどちらかといふとお父さんっ子で、何かあると、まづは父に相談するなど父の影響を受けてゐると自覚してゐる。
 そんな父に深く愛されてゐる女性が母。働き者で人気者。直感が鋭く、涙脆い。結婚する前はプログラマーとして外務省に勤めてゐた聡明な母。好奇心旺盛で、家族想ひで、愛情豊かで共感性が高く、躾に厳しかった。民生委員として地域貢献にも身を投じ、私の舞台衣装や髪飾りなども仕立ててくれる何でも創れる器用な母。そして、間違ひなく私の感性を活かし伸ばしてくれたのは母だった。
 学校に行けない時、母は無理に行かさうとはせず一言だけ「学校に行かないなら、授業を受けた時と同じだけの学びがあるやうに過ごしなさい」と言った。私は両親の持ってゐたレコードと画集を毎日夢中になって聴いたり眺めたり、美しいと感じるものを自由に好きなだけ触れることができた。
 その時の両親の寛大な理解と対応に心から感謝してゐる。「感じやすい」「人と違ふ」と言はれ、周りの目を気にする当時の私に、思ひっきり感じるままに感じていい時間を母は許してくれた。不登校の時期に、自分にとって歌は感じることに限りのない世界だと見出し、悲しい時も嬉しい時も歌を歌ふやうになった。
 そんな私の歌を誰より聴いて褒めてくれたのは母だった。人前では恥づかしがり屋のくせに、母の前では感じるままに表現できた。
 女性には子宮といふお宮が一人一人にあるが、ある意味で思春期の私は、生まれた後も母の子宮で守られてゐたのだらう。神職資格を取らうとした時にも母は「貴女を一本の木に喩へるとするなら、歌ふことは枝葉、神職になることは根を張ること。根っこが育つと枝葉も伸びる。きっと表現することにも良い作用があると思ふわ」と言って背中を押してくれた。今でもその言葉が忘れられない。
 母と娘の関係とは時に複雑で、ユングの心理学によると、子供が自立をする時、発達の通過儀礼として「心理的な母殺し」をおこなふといふ。母もまた娘であり、娘もまたいつか母になる。そしてまた時期が整ふと再結合するのだといふ。
 誰かが母のことを「永遠少女」だと言ってゐたが、まさにその通りの人だ。母の病気を通じて、母の生きる姿勢をしっかりと受け継ぎたいと思った。そして、母には幸せだと感じる瞬間を少しでも多く過ごしてもらひたい。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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