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杜に想ふ 二通りの礼 神崎宣武

令和6年08月19日付 5面

 パリ五輪の真っただ中で、本稿をおこしてゐる。テレビ観戦にあまり熱心でない私でも、若い人たちが真摯に戦ふ姿に感動することが多々ある。
 ひとつ、あらためて注目したのは、柔道における「礼」である。「おじぎ」である。
 もっとも、柔道といふ競技名が生まれたのは、近代である。教育者でもあった嘉納治五郎が精神と身体の訓練、修養の「道」として柔道を広めた、とされる。そして、講道館柔道を定着させた、とされる。
 それ以前は、柔術であった。剣術とともに武術であった。なほ、剣術も柔道にならふかたちで剣道と名のることになった。
 「術」と「道」の違ひとは、何か。諸論があらうが、わかりやすくいふと、前者は技術であり、後者は求道である。さういふことにならうか。
 したがって、そこでは、「礼」(おじぎ)を重んじることになる。「礼に始まり、礼に終はる」といふがごとくに、である。
 その礼には、二通りがある。
 そのひとつが、試合の開始前と終了後の相互礼。相手を正視しての挨拶礼である。もちろん、これはほとんどの選手が型どほりにおこなってゐる。
 しかし、そのさらに前後の礼は、どうだらうか。試合場(道場)への入場時と退場時である。揖(会釈相当)でよいのだ。これが雑な選手が目につくのである。
 これは、その場にまつはる有形無形の万象への礼である。私は、それをアニミズム(自然界の万物に霊が宿るとする古代信仰)の伝統、と位置づけてゐる。日本的な作法に相違ないが、今や国際ルールでもある。ならば、相互礼とは違ふといふことを周知させるべきではあるまいか。
 私たち日本人が何気なくしてゐる二通りの礼を再確認してみよう。
 たとへば、高校球児たちが球場への出入りの時、帽子を脱いでおじぎをしてゐる。相互礼は、ホームベースをはさんでのおじぎがさうである。
 大相撲でも、さうであらう。土俵に入る前の一揖と土俵上での蹲踞(相互礼に相当)。が、最近、どうもそれが雑になってゐるやうにもみえる。たとへば、敗者として土俵を降りる際の一揖が雑な例が目につくのだ。
 パリ五輪の柔道の試合は、世界各国から三百人以上の選手が集まるのだから、その徹底はむつかしからう。ただ、それは、国内の競技でも同じむつかしさなのである。
 若い選手たちが、先輩たちに習ふ。それを、こどもたちが見て真似る。それでよいのだが、どうも相手を前にしてのことだけに偏ってくるやうに思へるのだ。関係者は、意識して、見えない相手をも尊ぶことを教へていかなくてはならないのではあるまいか。
 二通りのおじぎ。これは、れっきとした日本文化なのである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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