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杜に想ふ あの日の空、日傘の夏 植戸万典

令和6年08月26日付 5面

 ヂリヂリと日光が肌を焦がす。数年前から夏は日傘が手放せなくなった。最近は男性の日傘使用率も上がってゐるといふが、自分の場合は美容のための日焼け対策だなんて理由ではない。熱中症から生命を守るために陰を持ち歩いてゐるのだ。今の季節はできるだけ日陰者でゐたい。
 傘は当初、古代オリエントで日除けとして用ゐられ、エジプトでもファラオの頭の上を覆ひ、権威の象徴とされたさうだ。中近東の強い光線から守られるといふのは、なるほどそれだけでも王の特権だと云へよう。
 日差しを遮るものがわづかな神社や公園で毎夏おこなはれる慰霊の行事でも、数少ない日陰は重宝する。例年、八月十五日の九段に参れば、鳥居の先にあるのは石畳に照り返る真夏の陽光。その頸筋まで灼く晩夏の太陽が「あの日」に向かふ日本人に単なる追悼の念だけではないまた別の思ひを喚起して、この日に特有の空気も生むのではないか。それは八月六日の広島にも似たところを感じる。
 昭和二十年八月十五日、人々は昭和天皇の玉声を拝聴して敗戦を知った。喧しいほどの蝉時雨。雑音の交じるラヂオの「堪ヘ難キヲ堪ヘ」。彼方には入道雲。そしてどこまでも青い空。それが日本の「あの日」だ。
 本当にさうだったのか。
 玉音放送が流れた当日の東京の最高気温は摂氏三十二度超とたしかに暑く、関東以西は広く晴れた。けれども冷夏の当年、その日も雲は北日本を覆ってゐる。「あの日」は皆が皆体験してゐるわけではない。
 「あの日」が晴天であることは、なにより「終戦の日」のドラマ性による側面も大きいだらう。国際社会的にはポツダム宣言受諾や戦艦ミズーリでの降伏文書調印式の日の方がまだ適当だが、それを差し置いて、国民には天皇の声で長い戦争の終はりを聞いたといふ体験の方が「終戦」だった。そしてその日が炎天下だったなら、より物語映えする。
 戦争体験を語り継ぐ――。民俗学方面での口承文芸や、オーラル・ヒストリーとしての意味はあるが、さうした口碑伝承はそのまま史実とはならない。当事者ですら記憶違ひもするのに、よほどの語り部でなければ伝へる過程で聞き手を意識した歪みも生む。これは文献資料も同様で、だから歴史学では史料の内容以前に史料批判も重視するのだが、史実よりも思ひが優先されがちな世間にあってはなかなかどうして史学者は日陰者だ。
 八月は毎年のやうに戦争の記憶が風化してゐると云はれ、戦争関連の報道も特輯されるが、もう体験談頼りの歴史語りだけではない史学に根ざした近現代史を重視しても良い頃だらう。実際、最近はその傾向も感じる。
 被爆国日本は戦後、皮肉にも「核の傘」に守られながら「平和」を謳ってきた。これもひとつの歴史だ。ただその傘の日陰はあまり特権だと誇りたくない。
(ライター・史学徒)

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