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杜に想ふ 能登は優しや土までも 涼恵

令和6年10月14日付 5面

 元禄時代から語り継がれるといふこの言葉の意味が、よくわかる気がする。今回の地震で過疎が二十年早まったともいはれるが、今年の八月、能登まで慰問演奏に伺ったとき、圧倒的な人手不足を痛感した。
 神戸出身の筆者から見て、倒壊した家屋や潰れた車、瓦礫の山となった街並みは震災直後の神戸も同じだったが、違和感を覚えた。神戸では誰かの声や工事の音がいつもどこかで鳴り響き、絶えず作業してゐる人がゐた。しかし能登では撤去作業も手付かずのまま、街は静まり返ってゐた。
 僅かに開いてゐたお店のなかで、輪島塗りのお店の八十歳になるおばあちゃんは、「能登はもう見捨てられたんだ」と心情を吐露されながらも、老眼をシパシパさせてコツコツと作った鞄や巾着袋を、店舗の一角にある手作りコーナーで売ってお小遣ひにしてゐるといふ。「ぢゃあ、この鞄買ふよ!」と言ふと、目を見開き、涙を溜めて喜んでくれた。今日の出来事を含め、輪島の現状を伝へてゆくことを約束した。
 誰かを、何かを責める前に、目の前にある自分にできることを淡々とやり続けようとする姿勢は、きっと人間の根本、その奥(土)までも優しいから。
 七尾の「高澤ろうそく」では、漆の和蝋燭を購入した。その灯火は天然素材で作られた温もりと強さを感じさせた。お店のおばちゃんも、宿泊した和倉温泉の旅館の従業員さんも、明るく気丈に振舞ってをられた。
 当事者の底力。後ろなんか振り返る余裕はない。そんな姿は、震災当時高校生だった私が触れた神戸の大人たちの底抜けの明るさと重なるものがあった。
 それから一カ月半後、あらうことか能登を豪雨が襲ひ、さらに被害が悪化してしまった。
 あの時の現地の皆様は今どうされてゐるだらうか。お店は……。
 連絡を取り合ふ仲となった御夫婦は白山市に避難されてゐたが、やうやく仮設住宅への引越しが決まり、覚悟を決めて輪島に戻って十日後、線状降水帯に襲はれ床下浸水。再び避難することとなった。「このたびの大水は残ってゐる力を削ぎ落とします。絶望感でいっぱい」と仰ってゐた。なんとか踏ん張ってゐたのに、何故こんなことに……。
 この原稿を書いてゐる時に、奉職する神社の秋祭り神輿渡御が斎行された。
 神戸は来年、阪神・淡路大震災から三十年を迎へる。神戸の街並みを練り歩きながら、二十九年前のことを思ひ出してゐた。あそこもここも今とは全然違ふ景色だ。震災を乗り越えた神戸の地から能登の皆様へ少しでもこの活気が伝はるやう、氏子総代の皆様と大きな声で「わっしょい! わっしょい!」と復興への祈りをこめた。できることは、ほんの僅かでも、これからも心を尽くして能登の皆様の心に寄り添ってゆきたい。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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