杜に想ふ
雲の息づかひ 涼恵
令和6年11月11日付
5面
今年に入って二度、出雲の地に御縁をいただき歌をお届けする機会に恵まれた。
筆者が初めて出雲に訪れたのは、今から六年前のこと。たいへん光栄なことに出雲大社教の婦人研修会に講師としてお招きいただいたことが始まりだった。
ある日、神社新報の担当者さんからお電話があり「出雲大社の神職さんから講演依頼が来てゐるよ」。お声を掛けてくださった神職さんは、いつも新報の原稿を読んでくださってゐるとのことで、嬉し恥づかしくも、身が引き締まる思ひだった。
「国譲り」。争ふことではなく、譲ることを選んだ精神が養はれた土地とは、一体どんな景色なのだらう――実際に現地に訪れた先々で得た経験は、今でも心の奥に染み込んでゐる。何より印象的だったのは、空の近さ。雲が幾重にも重なり、その色合ひには奥行があり、雲のなかに何かが身を潜めて息づいてゐるやうな、神祕的な美しさを感じた。
まさに出雲の名に相応しい、こんなにも雲の存在を感じさせる場所は今までになかった。そして、その雲の表情の豊かさに感動を覚えた。動きに緩急があり、水も空気も光も風も、あらゆる要素が影響し合ひながら、その陰影を創ってゐる。それはまるで、お喋りしながら、この世界を見守り、伝へるべきことを計らひ、取捨選択をして我々に御縁として届けてくださってゐるありさまにも感じられた。
出雲で暮らす人々とお話してゐると、素朴なのにどこかブレない軸を感じさせる。「出雲の大神様が、きっと良いやうに運んでくださるから大丈夫」。そんな神様との信頼関係が強さの裏側にはあるのかもしれない。
そんなふうに出雲の魅力を語ってゐると、「涼恵さんは伊勢派ではなく出雲派なんだね」と言はれることがあるのだが、少し妙な感覚を抱いてしまふ。出雲も伊勢も大切な場所で、参れば参るだけ互ひに呼応し合ってゐるのを感じる。
伊勢は自分にとって心が整ふ場所で、五十鈴川の御手洗場に座ってゐるだけで、その水面から自分の今の役割が映し出されるやうな……個を超えた公の祈りが繋がる場所といふのか、御皇室の祭祀の格式や伝統を守ってゆくことの必要性を感じずにはゐられない。
どちらも重要な場所。それだけで良いのにと感じるのは、きっと私だけではないだらう。二極化した表現よりも、日本の神道は多層的で、伊勢や出雲以外にも多くの神社や信仰が存在し、それぞれに独自の文化や儀式がある。「派」といふ言ひ回しはどこか対立的な印象を与へてしまひさうだが、神道の伝統に基づいてゐる共通の部分も多いだらう。柔軟な視点で文化や信仰を捉へてゐたい。
晴れでも雨でもない出雲の曇り空を見上げながら、思ひを馳せてゐた。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)
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