杜に想ふ
髪の神祕 涼恵
令和7年02月10日付
5面
恥づかしながら、筆者は生まれながらに酷い癖っ毛で、自身の髪の毛に長年コンプレックスがあった。
学生時代は先生や先輩からパーマをあててゐるのではないかとの指摘を受けたり、同級生からひやかされたり、傷付くこともあったが、大人になるにつれ、逆に天然パーマを羨ましがられることが増え、驚いたものだ。
「『髪』は『カミ』と訓じ、神や上に通ずる語意です。我國では大古から頭髪を生命存在の象徴として、霊魂の宿るものと神聖化してきた」。
兵庫・伊弉諾神宮に建てられてゐる頭髪感謝之碑の一節。昨年十月二十日、十七年前から毎年斎行されてゐる頭髪感謝祭に参列し、歌を奉納させていただいたのだが、髪にまつはる理容美容に従事する方々の真摯な姿勢に頭が下がった。髪に宿る力への感謝と敬ひ。
実家の小野八幡神社の再建が決まり、已むを得ない事情で境内地のクスノキを伐らなくてはならなくなった時、せめてもの想ひで伐採式と断髪式を斎行し献髪をした。約二十本の木々に散米と散酒をして、杣人に倣って鳥総立をおこなった。
高校二年の時から髪を切ってもらってゐる信頼する美容師さんが、木を伐るのなら自身の髪の毛も一緒に切りたいといふ願ひに共感してくださり、思ひ出深いクスノキの前で断髪をすることができた。
切ったばかりの五十センチの髪の毛は、どこか頼もしげで、自分の与へられた役割を理解してゐるかのやうに見えた。地鎮祭の際に新しく建て替へられる御本殿の下に鎮め物として埋められた。
残念なことに、その美容師さんはそれから程なくして、五十歳といふ若さで他界した。それから自分で髪を切ることが増えたのだが、これが難儀してゐる。ほんの数ミリの違ひで毛の流れが変はり癖の出方が違ってくる。鋏の入れ方によって絡まり具合や柔らかさまで変はってしまふやうだ。髪を切る行為はとても繊細な作業だと思ふ。
和装には直毛がよく似合ふ。憧れはあるものの、自身の髪の毛はくるくるとうねり、理想のやうにはゆかず悩ましい。だが、最近ではそんな自分の癖も含めて髪の毛は自分の分身なのだと受け止められるやうになってきた。
剃髪する僧侶とは対照的に、巫女や女子神職や舞姫は地毛を伸ばすことが多いだらう。ネイティブアメリカンやフラを踊る人たちも長髪が目立つ。体の最上位に位置する髪の毛には目に見えない何かを感じ取るアンテナの役割があるのかもしれない。
二十代前半に作詞作曲をした「ヒトゲノム」といふ作品に「この指の爪、この髪の毛も生きてきたんだ、生きてゆくんだ」と歌詞を書いた。今もこの原稿を書きながら、髪とともに考へてゐる。そこには別の人格があるかのやうに、強い意志と記憶を感じるのだ。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)
オピニオン 一覧