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論説 天皇誕生日 国家・公共の祈りの確認を

令和7年03月03日付 2面

 今号掲載の通り、天皇陛下には二月二十三日、満六十五歳の御誕生日をお迎へになられた。
 皇居・宮中三殿では天長祭が斎行され、黄櫨染御袍を召されて出御された陛下には、賢所・皇霊殿・神殿それぞれで御拝礼遊ばされてゐる。また天皇誕生日の一般参賀は新型コロナウイルス感染症の蔓延にともなふ中止や抽籤による入場者数の制限を経て昨年から従来通りの形でおこなはれてをり、今年は約一万八千人の国民が皇居に参集。日の丸の小旗を打ち振って祝意を表する参賀者に対し、陛下には親しくお手を振られて御答礼になり「おことば」を述べられてゐる。
 全国各地の神社においてもそれぞれ天長祭が斎行され、わが国全体が奉祝の雰囲気に包まれた。謹んで天皇誕生日を寿ぎ奉り、聖寿の万歳と大御代の長久、そして皇国の弥栄を祈念申し上げるものである。


 もちろん天皇誕生日をはじめ皇室の慶事を寿ぐのは神社に限った特有の事柄ではなく、むしろ斯界の専売特許のやうにしてはならない。皇室は国民斉しく仰ぎ奉るものであり、神社以外の各種団体などによって自発的に奉祝の儀礼・行事が挙行されることは歓迎されるべきで、実際に例年各地でさまざまな催しが執りおこなはれてゐる。
 戦前、この天皇誕生日は天長節として四方拝・紀元節・明治節とともに四大節の一つに数へられ、神社においては「天長節祭」が斎行されてゐた。明治維新に際し、神社を「国家ノ宗祀」とする官国幣社以下の神社制度が整へられ、祭祀については大正三年の勅令・官国幣社以下神社祭祀令に基づき、改めて皇室・国家に関はる祈りを含む公的なものとしての意義が確認されてきた。天長節祭もさうした祭祀の一つとして、いはゆる公祭に定められたのである。
 もちろんそのやうな公祭に対し、私祭として家内安全の祈願など個人が施主・願主となって神社に執行を依頼する祭祀もあった。だが天長節祭をはじめとする公祭は、さうした個人の祈りではなく、畏れ多くも天皇陛下より御任された公的な意義を有してゐたことを忘れてはなるまい。


 周知の通り官国幣社以下神社祭祀令は戦後、いはゆる「神道指令」によって失効した。その後、新たに設立された神社本庁において神社祭祀規程が設けられ、「天長祭」を含む祭祀が定められたが、現行法制度上はあくまで一宗教法人である神社が自発的に執行する宗教儀礼といふ位置付けになってゐる。さうしたなかでも先人たちは、近代に限らず古代の律令以来の歴史に鑑み、国家的・公共的な意義を認識しつつ年ごとの祭祀に臨んできた。
 法制度上は私的な一宗教法人になったとしても、国民精神の面において「国家ノ宗祀」としての立場を堅持することこそ戦後の神社神道の出発点であり、神社本庁を設立した先人たちの基本理念でもあらう。天皇誕生日に際しての奉祝の儀礼・行事として、引き続き多くの氏子・崇敬者など参列のもと神社において天長祭が斎行されることの重要性を訴へたい。さうしたなかで、先人たちが大切にしてきた神社祭祀の理想、神社本庁の理念をより広く共有していきたいものである。


 今年は終戦八十年、来年は神社本庁設立八十年といふ節目を迎へる。八十年前、占領下の混乱期に神社本庁を設立した神社関係者にとっての大きな懸案の一つが、昭和二十四年に迫った第五十九回神宮式年遷宮であり、結果的に四年の延引を経て昭和二十八年の斎行となった。それからすでに七十年余。式年遷宮は昭和四十八年の第六十回、平成五年の第六十一回、同二十五年の第六十二回と、大御心を体した国民奉賛といふ形で回を重ねてきた。
 をりしも昨年四月八日には第六十三回式年遷宮の御準備につき天皇陛下より御聴許を賜り、いよいよその諸祭・諸行事が始まらうとしてゐる。令和十五年に皇大神宮・豊受大神宮における遷御の儀の斎行が予定される式年遷宮の完遂に向けて決意を新たにしつつ、天長祭をはじめ神社における祭祀の国家的・公共的な意義、わが国における皇室・国家と祭祀との関係を再確認し、さうした国民精神の作興のためにも、神社における祭祀のさらなる振興・厳修に努めていきたい。
令和七年三月三日

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