杜に想ふ
筆の重み 涼恵
令和7年03月10日付
5面
正直に言ふと、恥づかしながら筆を執ることが今でも怖い。文字のチカラ、言葉のチカラを感じて已まない。だからこそ、書けば書くほどに、書き方がわからなくなるかのやうだ。
お蔭様をもちまして、気が付けば、昨年の十月でこちらに執筆させていただき丸十年を迎へた。回数で言ふと今回で百二十五回目となる。それなのに、どういふ訳かまったく上達したといふ手応へがない。むしろ年々難しく感じる。日々生きてゐるなかで、呼吸するやうに伝へたいことや書きたい内容は尽きないのだけれど、その書き方には、いつも苦戦してゐる。一体いつになったら上手く書ける日が来るのか……。否、さう思ふこと自体が傲慢なのかもしれない。
敬愛する恩師の文章は秀逸だと思ふ。内容はもちろん、段落や句読点を打つ位置、改行、てにをは、一文字一文字が感性と理性とで絶妙に整へられてをり、真似したくても到底敵はない。
そんな恩師に文章を書くことが苦手なことを打ち明けたことがある。すると、恩師は笑って「それでいいのだよ。自信がないならないままに、飾らず素直に綴ることが大事」。また「書くほどに難しく感じることは、ある意味で健全なこと」だと仰った。
畏れ多くも、この十年の間に全国各地の神職さんや神社関係者の方々から、「新報読んでゐるよ」「共感してゐます」などとお声を掛けていただくことが増えた。下手なりにも続けてこられたのは、そんなお一人お一人の優しいお言葉があったからだと心から感謝してゐる。
作詞作曲を十三歳からさせていただいてゐるが、執筆は明らかに違ひがある。感性だけでは書くことはできない。たとひ感じることができたとしても、表現を文章のみで伝へることは、より言葉を選び精査しなければならないだらう。
主観的だった思ひをまづは一度、客観的に捉へてみないとどこか伝へ切れない感じがする。書いて終はりではなく、推敲を重ねる必要がある。
不思議なのが、読者とのやり取りでの、主観と客観が混じり合ふやうな思ひ。集合意識として伝へさせてもらってゐるやうな、一人の感覚ではないやうに思へてならなくなる。この混じり合ふ感覚が面白い。斯界の課題も希望も含めて、とても前向きな気持ちになれる。一人で筆を執るのではなく、目に見えない読者や先人たちの想ひをも筆に乗せて綴ることができたなら良いのに。さう思へば、今この筆を執らせていただいてゐることが、ただただありがたい。
言葉は心を媒介するもの。誰かの想ひと想ひを繋げて言葉として刻んでゆくこと。だからこそ、この随想を読まれた方に共感されるととても嬉しい。一本の筆の重み以上のものを感じてゐる。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)
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