杜に想ふ
登拝信仰 神崎宣武
令和7年03月17日付
5面
講義での必要に迫られて、備前(岡山県)における熊山信仰を調べることになった。
熊山は、標高が五百七・八メートル。高くはないが、備前平野の南部では目立った霊山である。
頂上には、国指定の史跡「熊山遺跡」がある。方形三段の石積、天平時代の遺跡である。古墳とは異なる新しい形式。それについては、戒檀説や仏塔説、墳墓説や経塚説など諸説があるが、いづれも決め手はない。しかし、山頂部には他にも石組の台座跡があるので、信仰に関係しての遺跡とみてよいだらう。
そこで、「霊山熊山」とも呼ばれるやうになった。とくに、平安時代から鎌倉時代にかけては、熊山山頂だけでなく周辺の山中にも寺院が建立され、一帯が天台密教の修験場となった。他国からも多くの修行僧が集まった、と想定できる。
熊山にできた大寺は、帝釈山霊山寺といった。その境内地には、鎮守社として熊山権現が祀られた。また、南に下ったところには、上之宮と下之宮が建った。中世後期の熊山は、神仏習合の霊山だったのである。
そこには、神や仏とともに死者の霊魂も宿ったに相違ない。「磐隠」とか「山隠」とかいふ言葉が伝はるがごとくにである。
しかし、近世になると様相が変はる。鎮守社であった熊山権現社が中核となり、霊山寺は、その神宮寺となったのだ。その理由も、必ずしも明らかでないが、岡山藩が寺領よりも社領を手厚く扱ったからだらう、とされる。
近代における神仏分離では、それがさらに明確になり、熊山神社の成立と霊山寺の衰頽と相なった。
私が、かうした歴史の変遷のなかでもっとも注目したのは、近世から明治・大正期における庶民の登拝信仰である。
それは、「蟻の熊山詣」ともいはれた。蟻の熊野詣をなぞってのことだが、残存する日誌類からもそのにぎはひがうかがへる。なかでも、牛馬を引いて登拝する農民が多かった、といふ。そして、五月の熊山権現祭りが盛大におこなはれてゐた、といふ(仙田実『霊山熊山』日本文教出版・平成十五年〈二〇〇三〉)。
もちろん、稲作を中心とする豊作祈願であっただらう。それに、山林の材木の伐採や運搬の安全祈願でもあっただらう。中国地方では伯耆大山が、その象徴的な存在であったことが知られてゐる。昭和の前半期までの流行信仰、といっても過言ではあるまい。
それが、昭和後半の経済が高度成長のなかで一変した。かうした農山村における生活様式の伝承が、向都離村が続くなかで、多くの地方でむつかしくもなってきてゐる。
霊山をふりかへってみて、修験の山とみるのは、当然のこと。神仏習合の山とみるのも、当然のこと。しかし、それがすべてではない。庶民の登拝がいかにあったか、その視点を忘れず言ひ伝へなくてはならないだらう、とあらためて思ったことである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)
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