昭和二十一年七月八日、神社新報は創刊された。本紙の使命は、次のやうな創刊号の社説「創刊の辞」に端的に示されてゐる。
神社関係者が諸種の問題に対して正しき認識を持ち、誤りなき態度を採ることに資するべく、ひいては一般国民の宗教的教養の糧ともなすべく、正確にして価値のある報道と各方面の識者の建設的なる主張乃至批判を掲載することを眼目とする。
創刊以来六十年、本紙はこの「創刊の辞」の初心を一時たりとも忘れることなく鋭意努力を重ね、神社界の木鐸として聊かなりとも国家・社会に貢献して今日に至ったと自負するものである。無論、そこには幾多の反省・改善すべき問題点があり、創刊六十周年を迎へるに際し、改めて「初心忘るべからず」の精神に立ち戻る必要がある。
敗戦直後の混乱と神道指令の重圧下、国家管理を離れた全国神社の大同団結と進むべき方向性の確立は、全国の神社関係者の喫緊の最重要課題であった。当時の先人たちは、互ひの意見や方針の相違を克服して神社本庁を設立、ここに神社界は一応の大同団結を果たして、新たに出発することになったのである。だが、神道指令下の神社本庁には難問が山積してゐた。その最も困難な問題が、占領軍や政府の対神社施策の動向の分析と対応であったことは言ふまでもない。
かうした占領軍・政府の神社に対するさまざまな施策や行政措置の意図・背景を的確に把握し、全国津々浦々の神社に正確に伝へて、神社関係者に徒に動揺や不安・混乱が惹起しないやう配慮することは、当時の本庁幹部にとって最も重要かつ喫緊の課題であった。
この課題を解決するため、神社本庁初代事務総長宮川宗徳氏は、「全国の神社関係者に対する情報連絡指導の機関」としての本庁及び全国神社の新聞が是非とも必要と思慮し、昭和二十一年五月に神社本庁に編輯課を設けて神社新報社を発足させた。
以来、神社新報は本庁の機関紙として、本庁の連絡及び指導事項の定期的で正確な情報伝達、あるいは地方の神社関係記事の報道といふ重大な役割を担ひ、全国神社の連帯を強化する神社界唯一の全国的メディアとして斯界発展に寄与してきたのである。
本紙の創刊によって、全国の神社関係者は大いに勇気付けられ、連帯感を一層強めた。故葦津珍彦氏は、「神社の立場を公然と守る機関新聞が、毎週正確に全国津々浦々に至るまで配布されると云ふことは、その事だけでも神社関係者に一つの安堵を与へた」と回想してゐるが、その回想から五十年経った今も、全国の神社関係者にかく思はしめる努力が本紙に必要であることは言ふまでもない。
本紙は神社本庁の機関紙として発足したのであるが、その編輯権は創立当初から独立したものであり、独自の維持・運営をおこなふ組織であった。それは、あの敗戦と神道指令による苛酷な状況を乗り越え、伊勢の神宮を本宗と仰いで全国神社の結集と団結を果たした先人の悲痛な思ひと努力から生まれた知恵であった。
本紙が、神社本庁の機関紙でありながら、別の組織として存在することの意義について、神社新報社役職員・関係者はもちろんのこと、全国の神社関係者は改めて本庁設立当時に立ち返り、思ひを致すべきであらう。
その思ひを致すべき、根底的意義とは何か。これまた、本紙「社説」(昭和二十一年七月十五日、第二号)に明快に述べられてゐる。
今や神道人が本庁を中心に果たすべき任務は頗る多い。この協力を惜しむ人があるならば、それは意識するとせざるとに拘らず、現実に於ては、全国の同信同志を裏切り、利己的意識に陥るものである。神職各位はその奉仕せらるる一神社の神職であると同時に日本の神社人神道人たるの自覚に醒められんことを切望してやまぬ所以である。
この創刊間もない頃の「社説」の言こそが、本紙が本庁及び全国神社の機関紙たらんとする使命感とその存在意義の表明であり、その言葉は今日においても一向に色褪せてはゐない。
それどころか、六十年後の今に生きる「利己意識に陥った一神社の神職」たちの覚醒に向けて発せられた最も厳しい「警句」でもある。この全国神社の一致団結を希求して止まぬ不屈のペンマン魂は、「神社界唯一の新聞」としての実績と誇りを有する本紙の生命であり、創刊の精神でなければならぬ。
斯界が大同団結し、「全国の同信同志を裏切り、利己的意識に陥る」者が無きやう、本紙は今後も木鐸として警鐘を鳴らしていく。このことを、創刊六十周年を期して、先人たちの御霊に固く誓ふものである。