葦津珍彦は、昭和三十一年頃発行のパンフレット『現代神社の諸問題』冒頭で、「神社神道は、昭和二十年八月十五日の敗戦の後に、その歴史上かつて経験したことのない危機に対決するに至った。現代神社神道には、幾多の問題が存在するが、それらの諸問題は何れも日本国の敗戦といふ事実に、直接間接につながってゐると云ってよい」と記した。哀しいかな、現代神社神道の歩みは大東亜戦争「敗戦」といふ厳然たる事実から出発せざるを得なかったのである。
二十年十二月二日には、神宮祭主・梨本宮守正王殿下、皇典講究所副総裁・平沼騏一郎、大日本神祇会長・水野錬太郎ら神社関係者が「戦犯容疑者」指名により下獄するといふ深刻な事態に至り、十五日には「神道指令」が発せられ、全国神社を管掌してゐた神祇院が廃されるとともに、神社は国家管理から離れることを余儀なくされた。
また当時、占領軍が各地の神社に侵入し刀剣類を押収するなどの傍若無人たる振舞ひが度々あり、連合国側報道機関は神道を日本の軍国的支柱とみなして痛烈な非難を加へ続けたため、全国の神道人の中には、神社参詣をも禁圧されると誤解した向きもあったほど、未知の不安に萎縮せざるを得ない心理状況下に置かれてゐたのである。
このやうな「精神的恐慌」状態の全国の神道人たちに対し、「神道指令」の運用などGHQ諸政策の意図を詳細に紹介・解説し、新しい状況の正確な情報を毎週定期的に知らせて過度の不安を取り除き、自信を恢復させることこそが、神社を公然と守る機関新聞『神社新報』の草創期における重要な使命であった。
昭和二十一年二月三日、宗教法人令に基づき、「神社ノ包括団体」たる神社本庁が発足した。それまで神道人らの相互的協力により経営されてきた民間団体である、大日本神祇会・皇典講究所・神宮奉斎会を母胎とする本庁は、他宗教団体との歴史的本質的な性格の相違に鑑み、管長や教義教典を持つ「神社教」ではない形で創立された。
本庁初代事務総長に就任した宮川宗徳は、まづ神社界専門の新聞を持つことを欲した。占領下の厳しい状況を生き抜くためには、全国神社に対する情報伝達網が必要だと考へてゐたからである。宮川は、三月二十六日から開かれた本庁の第一回評議員会で神社本庁の機関新聞の発行を提案した。だが、篠田康雄によれば、これには猛然たる反対意見が出され、「大勢はこれに同調する空気」だったといふ。発足当初の本庁は組織の基礎も固まらない状況であり、機関紙発行が神社界の歩調を乱し摩擦を生じかねないといふ懸念を持つ者も当時は少なくなかった。
一方で宮川は、当時、総長を補佐する立場にあった葦津珍彦にも、「本庁には独自の新聞、少なくとも週刊紙が必要だ。君やってくれぬか」と相談を持ち掛けたが、葦津は、当時の未曾有のインフレによる用紙・印刷・人件費の暴騰や、読者数の見込みも立てずに新聞を発刊しても半年後の経営予想さへつかないことを理由にきっぱり断った。
それでも宮川は着々と準備を進め、五月には本庁に編輯課を設けた。また、六月には葦津に「総長としては五十号、百号で斃れても新聞が必要だ。諸方とやかましい交渉の後に週刊五万部の用紙配給権をとり、ともかく新聞作成のスタッフ七、八名を集めた。それぞれ特徴ある有能の青年だが、全員神社や神道には素人だ」と述べ、再び時局解説や論説コラムの執筆、助言を求め、遂に葦津の協力を得る。宮川らは、占領下の劣悪な環境ながら、私財をかき集めて資金調達し、数々の悪条件を克服して七月八日付の創刊号に漕ぎ着けた。
「神社新報社」は、創刊の時点では未だ本庁内の組織だった。但し、当初から、あくまで編輯権は本庁執行部より独立し、その維持運営に関しても、独自の理事会、評議員会などを設け、できる限り早く「独立採算」を目指す方針だった。
本庁から明確に独立した組織として歩み始めたのは、二十二年四月二十八日開催の理事会からで、十二月には「株式会社」となった。だが、九月に宮川が公職追放で社長を辞任せざるを得なくなると、斎藤英夫が社長に就任し、実質運営は葦津に任された。葦津が編輯と経営両面の責任を負ふこととなったのである。
本庁からの独立の理由は、新報の占領行政に対する報道の影響を本庁に及ぼさないといふ消極面もあったが、「経営的に独立しない新聞は機関紙としての価値がない」とする葦津の積極的な考へ方があった。この当事者にとってはたいへん苦しく厳しい原則は、今に至るまで変はってはゐない。
草創期の新報には初代編輯長・大坪重明をはじめとする若き記者たちがをり、また、公職追放により記者はできず「業務」面に就かざるを得なかった島田春雄ら文章のプロたちも「影の記者」として活躍した。さらに朝日新聞の元主筆・緒方竹虎が葦津に全面的な助言を与へてもゐた。その他、八束清貫や小野祖教ら神道学者、或は外部学者らによる専門的知識提供の貢献も無視できない。
神社新報社は、「生みの親」たる宮川宗徳と「育ての親」たる葦津珍彦両人の情熱と献身的尽力により歴史を刻み始め、今日まで六十年間、一貫して神社本庁の機関紙として週刊新聞を発行してきた。新報の歴史的現在的存在意義は、初期に記者を務めた澁川謙一の次の言に尽くされてゐよう。
神社新報社の歴史は、葦津とそれを支へた先人、並びに社周辺の人々を除いて語ることが出来ない。同時に神社新報社は単なる神社界の業界紙ではない。敬神尊皇の志を具現するために努める神社界の機関紙である。
(『神社本庁十年史』『神社新報編集室記録』『神社新報』二〇〇〇号『神社新報選集補遺』『神道指令と戦後の神道』『神社新報五十年史』等を参照)【敬称略】